2011/4/13 「”つなぐ力”で放送の再生を」『民間放送』紙に掲載

“つなぐ力”で放送の再生を 

民放連メディアリテラシー実践プロジェクト 〜5年間の成果とこれから〜

本プロジェジェクトのメンバーで、長きにわたって民放連メディアリテラシープロジェクトに携わってこられた境真理子さんが4月13日の『民間放送』に記事をよせられましたのでご紹介します。

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「民放連メディアリテラシー実践プロジェクト」 〜5年間の成果とこれから〜

境真理子(桃山学院大学教授)

未曾有の大災害が襲った。日本型社会システムが、変革を迫られている。放送も例外ではない。今のありようからその先の新しい放送の姿を描けているだろうか。少なくとも、昨日に戻ろうとする惰性は排してほしい。編集部からの依頼は、民放連メディアリテラシー実践プロジェクト、5年間のまとめと成果である。放送は何を目指すのか。それは私たちの社会に本当に必要なものとされるのか。また必要と言われるために何をすべきか、そう問いをたてるとき、メディアリテラシーは、明確な道標になる。少なくとも現在の混沌としたメディア状況のなかで、放送の再生とメディアリテラシーは分けて考えることができない。放送とメディアリテラシーをめぐる取り組みに、筆者は研究者チームのメンバーとして参画した。この5年間を振り返ることは、単に昨日までのまとめではなく、明日の放送のグランドデザインを描くことにつながると考える。メディアリテラシーは有効な座標軸となるだろう。
まず、民放連メディアリテラシー実践プロジェクトの概要を整理する。実践は、東京大学大学院・情報学環の水越伸氏を中心とする研究者チームと民放連、加盟局が連携し、2006年に開始された。毎年、参加希望社を募り、あわせて13社が実施した。2006年度に、青森放送、中国放送、テレビ長崎の3社でスタートし、2007年度は北海道放送、山口放送、愛媛朝日放送が参加、2008年はチューリップテレビ、岡山放送、南海放送、2009年度は和歌山放送、九州朝日放送、鹿児島テレビ放送、そして、2010年度に文化放送が参加し、今年3月に5年間の活動を締めくくることとなった。
実践は、放送局員と子どもたちが協働で番組を作るプロセスを通して、子どもだけでなく、送り手自身もメディアリテラシーを学ぶようデザインされた。従来のメディア批判だけでなく、表現から入って学ぶことを重視し、放送というメディアに対してより深い理解を促すというアプローチをとった。
メディアリテラシーは、よく21世紀の読み書きにたとえられる。「読む」が批判的受容であり、「書く」は表現である。読みと書きは地続きでつながっている。批判と表現は、らせん的に循環し、鍛えられるもので、切り離すことができない。参加した子どもたちの満足度をみると、表現から入る方法は一定の成果をあげたと考える。
毎年シンポジウムやセミナーが開催され、個別の経験や課題は積極的に共有された。参加社によって事情は異なるものの、報告は、いまなぜメディアリテラシーなのかを明確に語るものであった。たとえば、「生活者の視点を確かめる手段になった」「自らの足元を見つめ直す契機となった」「地域ユーザーとの新たな関係づくりにつながった」などである。(これについては、『月刊民放』2009年9月号の特集、「地域から拓く」に詳しいレポートがあるので参照してほしい)
今回の取り組みには土台があった。2001年から2002年にかけて、加盟局4社で実施したパイロット研究、および、その成果をまとめた『メディアリテラシーの道具箱〜テレビを見る、読む、つくる〜』(東大出版会)である。多様で先端的な取り組み例が先行してあったことや、テキストとして「道具箱」があったことは、各社の取り組みに目標と言語を与え、価値を共有しやすかったと言える。
ただし、現実の取り組み過程は平坦ではなかった。個々のメディアリテラシーの解釈や価値の理解、局内の温度差、実践の方法など模索は続いた。研究者チームのコーディネートによる子どもたちと局員の協働作業という構図は、図式化すると簡単に見えるが、放送についての根源的な問いを含んでいた。
送り手は受け手に向けて一方的に情報を出すだけでいいのかというマスメディアの一方向性の課題。情報が消費されるだけで循環的に利用されない現状への疑問。送り手は、専門家として素人に知識を授けるという立場にとどまりやすく、そのために生じる市民との乖離。市民社会との対話の不在、断絶、これらの問題をどのように送り手が意識化、相対化できるかが問われたのである。
これらは、送り手のメディアリテラシーという文脈で議論された。しかし、放送全体では熟した議論とはなっていない。それどころか、不況のなかそんなことはやっていられないという本音の声も聞いた。おそらく、出発点が不幸だった。放送にメディアリテラシーが問われたのは、90年代に高まりをみせた視聴者からの批判を受けてのことである。あえて言えばその不幸を引きずることはないと思う。新しく生まれ変わることを目指すのなら、もっと積極的に、放送再生の鍵と理解したほうがよい。やってよかったと思える幸福なメディアリテラシーを目指してはどうだろう。
いま私たちは、マスと個人が引き裂かれていくメディアの現実を生きている。その相貌は、一方的に肥大するマスか、限りなく極私的になるか、その二極に分かれていく。それを主体的、意識的に超えようとしなければ、断面は広がるばかりだ。
メディアリテラシーがなぜ有効か。つなぐ力になるからだ。地域社会や学校を巻き込んでの取り組みは、不特定多数のマスから、特定少数の顔のみえる人々と直に向かい合う経験になる。放送はコミュニケーションの仕事である。コミュニティを考えることは、一般的な商行為とは異なるコミュニケーションの仕事を考えることに繋がる。
実践プロジェクトの経験は、参加局だけのものではない。先行例を参考に個別に実施できる。また民放連では、来年度以降もプロジェクトを継続して実施する予定と聞く。メディアリテラシーは、放送のグランドデザインを描くときの力やエンジンになるだろう。これまで参加した担当者から寄せられた感想が、そう確信させてくれる。

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