実践をめぐるエッセイー”Keitai Trail !” in Ars Electronica Vol.3

【はじめに】
私たちmedia exprimoが今回Ars Electronicaへ参加表明を行ったのも、思えば2008年5月19日のことであった。光陰矢の如し、4ヶ月間の濃密な日々が一区切りついたといえるだろう。
Festival Ars Electronicaにおいて例年開催されるキャンパス展において今年は東京大学が出展を行うことになり、その中でのワークショップ開催という位置づけとなった。参加のきっかけはキャンパス展(東大展)のオーガナイザーを務める森山朋絵さんに情報学環の開講する授業を介して縁した所以である。
今回私はキャンパス展の運営およびワークショップの企画・実施などを役割としアルスに参加した。それらのプロジェクトを通じて何を経験し、何を発見し、何を拓いたのだろうか。少し振り返ってみたい。
【つなぐインタフェース、ワークショップ】
ワークショップを用いて何をどのようにするか。ヒトとモノをつなぐ。ヒトとヒトをつなぐ。インタフェースをデザインし、空間やコミュニケーションをデザインする。つなぐという行為において新たな意味や価値、そして共感が創造されるという信念に基づき生きているといっても過言ではない。では、ワークショップによって一体何がつながれたのだろうか。
まず、ワークショップが他の作品展示と大きく異なる点は、「現場」で何かが創り出され時には思いがけない出来事が起こるなど非常に即興的で、また現在進行形であるという点である。メディアアートはいわば現場である。現場でしか体験できない、意味や物語、それらが表現という手法によって現れる。そのような観点からすると、ワークショップは究極のメディアアートなのかもしれない。
「何か変なことがしたい」6月頃私はそのようなことを口にした記憶がある。いつしか私たちはワークショップにおいて弥次喜多の格好をしていた。
さて、ワークショップKetai Trail!ではケータイによるヴィデオ撮影を行い、モバイルな品物を通じて人々のメッセージをつないでいくという手法を用いた。ここでは「つなぐ」という観点から考察を行いたい。まず、江戸時代と現代をつなぐ。江戸時代における旅を通じたモバイル文化は日本の現代におけるモバイル文化と源流を共にする。モバイルが含む意味とは何か。我々が自分のモバイルな持ち物を問い直すことは、果てしない時の旅であるともいえるだろう。
次に、モノと言葉をつなぐ。参加者はsomething xxxなモノは同時にsomething zzzであると伝える。そしてzzzなモノとして次なる参加者はsomething kkkであるという。 参加者はモノを言葉で表現することによって、そのモノに対する見方や接し方に変化を起したのではないだろうか。
最後に、ヒトとヒトをつなぐ。質問によってメッセージは異なるヒトへとつながれる。モノを語ることでヒトはそこに込められた物語や自分自身を表現する。表現するという行為は自分を見せる行為に他ならず、メッセージを伝えるという行為は他への表現に他ならない。それによって関係が生まれ、ヒトはヒトに何かを伝える。通常の対話であれば様々な要素が包含されコミュニケーションが生まれる訳だが、Ketai Trail!ではそうしたメタデータは非可視的にマッピングされていく。今回のプロセスや発見などを踏まえ、更なるつなぎ方を編み出していきたいものである。
Keitai Trail!は、果たしてどのようなダナミズムを、もしくはアートを生み出したのだろうか。一人一人がtrailの中で表現することによってヴィデオの中に、また心の中に、可視的に非可視的に様々なアートを生み出していったのではないだろうか。それらはとてもプライベートな作品であり、また共同体としてのパブリックな作品でもあるだろう。マクルーハンの言葉の通り、メディアはメッセージとなり、メッセージはメディアとなった。


【つなぐインタフェース、アルス】
Festival Ars Electronicaという催しは特殊な存在である。というのも、アルスはグローバル・コミュニケーションとローカル・ネットワークを双方向的にアプローチするという大きな方針の下、Festival Ars Electroincaは対外的なイベントとして、リンツ市民や一般の人々をメインターゲットとした常設のArs Electronica Centerとは異なった趣旨で開催されているためである。来場者は普段起こりえない数々の非日常的な場面に遭遇する。そのためか、多くの人々はそうした刺激や発見を求めてやってくるようだ。特定の目的をもってやって来る人は極僅かで、むしろ先入観を捨てて触れることによって既成概念や価値にとらわれず体験できる空間であるともいえる。そこで問題となるのは、どう「つながる」かである。ヒトと、アート作品と、イベントと、音楽と、空間と、媒体は有り余っているにもかかわらず一般の人々からはつながり方が分かりづらい。そのような様子が見受けられたのは、場のしつらえに改善すべき点がいくらかあるということでもある。また、領域内の世界に閉じ込められてしまうという事態はアートに陥りがちな罠である。 時としてアートは 「普通」なものと乖離してしまい、他とつながるコミュニケーションが介在する余地を低減する。アルスにはinfo trainerという来場者に対して作品説明や会場案内をする、いわばコミュニケーターが存在する。しかしながら、Festivalにおける役員は臨時雇用者であったり、常設のCenterでは来場者とのコミュニケーションのフィードバックがうまくなされていないという話を伺うなど問題は山積みである。
そうした事態を打開していくために必要なのはインタフェース、またコミュニケーションのデザインである。アートにはデザインが求められており、デザインにはアートが求められている。両者の双方向的なつながりが非現実的世界と現実世界をつなぐ力をもっていると考える。
2009年にアルスは30周年を迎えると共にリンツ市は文化都市として認定される。それに併せて2009年1月にはNew Ars Electronica Centerが開館し、新しいインタフェースデザインやワークショップなども計画されているようだ。「センターは人々に近く分かるものでなければならない」、と語るFuterelab(アルスのリサーチやマネージメントなどを行う)の館長の言葉がどこまで実現していくのか、アルスの来年以降の展開に注目したい。
ところで、今回キャンパス展では工学系の研究室を中心にロボットやヴァーチャル・リアリティなど多種多様な作品が展示された。その中でもワークショップチーム弥次喜多はかなりの際立った存在であったと感じる。更にメンバーはバックグラウンド、研究内容や年齢さえも大きく異なる、いわば謎の集団である。そして自分がその謎の集団が好きであるということは、言うまでもない。
更に集う世界各地からの客人とヴィデオ。アーティストやジャーナリストのみならず旅人であったり、地元の人々であったり、アルスの常連客であったり。もはや謎の空間である。しかし、謎というのは重要なキーワードで、そこには大きな可能性が秘められているのだ。それは化学反応のようなもので、異なる物質が近寄ることで新しい何らかの変化が生まれる。アルスの中で生まれた人々とのつながりは、今後どのように変容していくのだろうか。未知的要素が多く不安が大きいことはもちろんだが、そうした謎に挑戦するという試みは私たちにとって永遠の課題ともいえるのではないだろうか。
【おわりに】
謎の集団チーム弥次喜多を、アルスとつなぎ、またキャンパス展メンバーとつなぐインタフェースとして機能し、私は新たな出会いや発見を見出すことができた。「ヒトとアートをつなぎたい」私は日々考え、また行動している。インタフェースになりたいのだ。アルスで試みたように、意味を求め、価値を求め、笑いを求める。なぜなら、その先には幸せというマジックがあるからだ。そして、 私の挑戦は終わることを知らない。
(文責:田中ゆり)

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